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2007.10.06 Sat
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【PJ 2007年10月06日】− (上)からのつづき。60年代半ば、茨城には縁もゆかりもなかった帯刀さんが、当時最盛期を迎えつつあった国内有数の地域開発「鹿島港湾都市開発」の手伝いをすることになったのも偶然のきっかけからだ。高校の先生を目指していた法政大学4年の帯刀青年は、「フランス社会学の方法」という論文もモノにし、教員免許も図書館司書も取得、神奈川県川崎市の教員試験もパスしていた。
北川先生の希望は大学院での研究調査を続けることにあったようだが、実家にこれ以上金銭的負担はかけられない。奨学金制度を活用するには、学部の成績が上位3番以内が条件。 最新イジメ情報は・・・コチラ 出雲で待つ親の顔、北川先生の期待、純な帯刀青年の悩みはつきなかった。 折りしも北川ゼミが新潟県直江津で地域調査の昼休み、城跡公園の片隅で北川先生に戸惑いを振り切ってこう聞いた。「あのう、先生、ボクの奨学金、大丈夫なんでしょうか?」。もちろん事前に奨学金支給の可否など部外秘の事項。聞く方も勇気が要ったろうが、応える先生はそれ以上に真剣だったはず。この話をした時、帯刀さんは一瞬目をしばたたせた。さぞうれしかったのだろう。時折学生に見せる帯刀先生の優しさの原点は、直江津城跡公園にあったんだと、わたしは納得した。 当時の鹿島は、鹿島神宮以外に建造物など見当たらない砂と松林の地。そこに巨大港湾を掘り込み、「農工両全」という名の下に開発が進められていた。農業と工業を両立させる巨大開発と地域社会の存続には課題もまた多かった... ニュースの続きを読む (引用 livedoorニュース) |
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